1.福祉世界の構想に立ちはだかる「平和」という課題
福祉社会を実現するうえで避けて通れない重要な課題の一つが「平和」の問題です。一般的に「平和」とは、国家間に戦争が存在せず、国内では法と秩序が保たれた安定した状態を意味します。社会福祉が目指すものが人々の生活の安定と尊厳ある生の保障であるならば、その大前提として「人命が戦闘により奪われないこと」が欠かせません。つまり、福祉の理想を一過性の対症療法にとどめないためには、国家間・国内双方の平和の実現が根本的な視野に入れられるべきです。
しかし、平和の問題はしばしば社会福祉とは無関係な、より大きな地政学的課題と見なされがちです。けれども、歴史的には「大砲かバターか(Guns or Butter)」という形で、軍備拡張と社会保障は財政面でしばしばトレードオフの関係に置かれてきました。また、戦争が始まれば、その影響を最も受けやすいのは、高齢者や子ども、障害者など、福祉サービスに依存する人々です。命だけでなく、生活基盤や人間の尊厳も戦争によって破壊されていきます。
2.ポスト冷戦と「エスニシティ問題」
冷戦時代、世界は資本主義圏と社会主義圏に分かれ、米ソ対立を軸にした軍事的緊張が続いていました。冷戦終結後、国家間の明確な対立構図は薄れましたが、その代わりに顕在化してきたのが国家内部の分裂要因、特に「エスニシティ(ethnicity)」に関わる問題です。
エスニシティとは、単なる人種や血縁的集団を超え、言語・宗教・文化・歴史的経験などによって形成される、社会的かつ文化的な集団を指します。国民国家という概念そのものが19世紀以降に形成された人為的な枠組みであることを前提とすれば、国家内に多様なエスニック・グループが存在することは必然であり、その差異が自覚化されることで、摩擦や対立が表面化するのも自然な流れといえるでしょう。
典型例が旧ユーゴスラビアです。かつては一国として存在していたこの地域は、冷戦後の1990年代に民族紛争と内戦を繰り返し、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなど、6つの国家に分裂しました。
このような事態を背景に、近年では「文化多元主義(cultural pluralism)」や「多文化主義(multiculturalism)」といった共存の枠組みが政策としても提案されるようになっています。福祉政策においても、国籍による線引きが移民・難民にとって不利に働いてきた事実があり、「市民権(citizenship)」の再定義が求められる状況にあります。
3.いまも続く「核兵器」の脅威
エスニック紛争と並んで、現代の平和を脅かす最大の要因が「核兵器」です。冷戦時代には「相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)」という形で核抑止力がバランスを保っていましたが、その後も核兵器の存在自体が人類に対する重大なリスクであることに変わりはありません。
実際に使用されれば、数分で都市が壊滅し、無数の命が失われるだけでなく、成層圏に舞い上がった塵による「核の冬」によって地球全体が飢餓に陥る可能性さえあります。現在でも、偶発的な誤発射のリスクや、インド・パキスタンなどの地域的核保有国間の対立、さらには核拡散防止条約(NPT)体制の限界など、課題は山積しています。
日本は、広島・長崎への原爆投下によって世界で唯一の被爆国としての歴史を持っています。その経験を踏まえ、日本は核廃絶に向けた国際的リーダーシップを発揮すべき立場にありますが、同時にアメリカの「核の傘」の下にあるという矛盾も抱えています。
4.福祉と平和の相互関係
「平和は福祉の前提であり、同時に福祉は平和の前提である」という言葉に象徴されるように、両者は密接に関連しています。戦争は人間の尊厳を破壊し、福祉のあらゆる基盤を根底から揺るがす一方で、生活の安定が確保され、貧困や格差が緩和されることで、戦争の原因自体を取り除くことも可能になるのです。
しかし皮肉なことに、歴史的には戦争が福祉国家の形成を促進した側面も否定できません。20世紀初頭の総力戦体制の中では、国民を戦争に動員するために、銃後の生活保障や健康増進が政策として進められました。事実、「福祉国家(welfare state)」という言葉は「戦争国家(warfare state)」と対比される中で誕生したともいわれています。
5.福祉世界の実現に向けて
では、国際的な敵対関係を前提としない「福祉世界(welfare world)」は、果たして成立可能なのでしょうか。これまで人類は、外敵の存在によって内部の結束を高めてきました。しかし、福祉世界はそのような敵を持たないがゆえに、何を基盤に連帯を築くのかという根本的課題に直面しています。
2009年、アメリカのオバマ大統領はプラハ演説で「核なき世界」を訴え、核兵器廃絶に向けた明確なビジョンを示しました。このような国際的リーダーシップと、市民社会の連携がなければ、福祉世界の実現は遠い夢に終わってしまうかもしれません。とはいえ、福祉と平和を相互に補完し合う構想は、人類が未来に希望を持つための最低条件であるといえるでしょう。
